ハンセン病を題材とした小説『あん』が世界各国で翻訳され、映画化され高い評価をうけたドリアン助川さん。バブルの時代に「叫ぶ詩人の会」として鮮烈なデビューを飾り、作家、詩人、道化師、ミュージシャンとして様々な分野で活躍されています。表現者として「人間」や「命」など普遍的なテーマについて考え、発信し続けているドリアン助川さんにお話をうかがいました。

表現という仕事は「人間ってなんだろう」「命ってなんだろう」を考えていくこと

――バブルの時代に登場した「叫ぶ詩人の会」は異彩を放っていました。活動のきっかけはなんだったのでしょうか? 

助川:「叫ぶ詩人の会」出発点は東欧革命とカンボジア内戦なんです。1989年にベルリンの壁が崩壊した当時、僕は取材記者でした。ベルリンから、チェコ、ルーマニアの内戦を取材して帰ってきたあと、カンボジアに自衛隊がPKO(国際連合平和維持活動)で派遣される1年前に行き、地雷原を歩いていた。日本から飛行機で6時間くらいのところで、地雷で脚が吹き飛んでしまった人たちがいたんです。

 同じ頃、日本はバブリーなラブソングしかない時代でした。
 僕もラブソングは好きですが、それだけでなくてもいいだろうと感じたんですね。歌謡界の1%くらいは社会から忘れられている人の痛みとかそういうものを叫ぶ歌があってもいいのではないかと。なにより脚を失ってしまったお父さんの気持ちや家族全員を殺されてしまった女性の気持ち、その悔しさや悲しさが身体にたまっていました。彼らの気持ちを俺が伝えないでだれが伝えるのだという人間の衝動として始めたんです。日本がバブルであろうがなんだろうが関係なかったですね。ただ当時の日本社会へのアンチという意味は、少しあったかもしれません。
――その後さまざまな活動をされ、作家として活躍されています。その活動や作品からは一貫して社会をよくしていこうといった意志を感じます。

助川:よく誤解されますが、社会を良くしようとか、社会の課題を解決するための活動をしようという思いはないんですよ。
 僕がやっている表現という仕事は「人間ってなんだろう」「命ってなんだろう」ということを思想的に深めていくことです。ただ考えていくなかで、世界のこういう動きはおかしいんじゃないかといったことは口にしたり、書いたりはしますけれどね。

 『あん』はハンセン病の元患者の徳江さんという高齢の女性が登場する小説です。1996年に「らい予防法」が廃止され、ハンセン病の患者たちは病気が治っているのに何十年も療養所から出られなかったといった事実を知ったことが執筆の一つのきっかけになりました。この人たちの生きる意味は何だったのかと考えだした。やがて療養所にも行くようになって、そこで無名のまま想像を絶するような逆境と闘って生き抜いていった人たちと出会いました。この人たちにはとてもかなわないなと思った。そういう人間の強さを書きたかったんです。
【『あん(ポプラ文庫)』ドリアン助川/ポプラ社】
このように年月と共に表現するテーマは変わっていきましたね。
 30代の頃に書いた小説は、青春の痛みだった。「なぜ生まれてきてしまったんだろう」という痛みだったんだけど、今、僕は「なぜ、老いていくんだ」「なぜ死ななくてはいけないのか」という人の悲しみの側に立とうとしている気がします。


10代の悩みにはクリエイティビティーが発揮される
――数年前からラジオの人生相談番組のパーソナリティーも務めていらっしゃいますが、高齢者の方の相談が多いですね。

助川:若い頃は年を取っていくと悩みごとが減っていくものだと思っていましたが、違いました。みんないくつになっても悩みがあって、ぐちゃぐちゃなんですよ。60代になっても、70代になってもお金のことで悩んでいたりする。

 かつては深夜のラジオ番組で10代の子たちの声を聞いていましたが、そのときの悩みは多岐にわたっていました。悩むにはクリエイティビティーが必要で、想像力豊かな若い子は多様な悩み方をする。しかし歳をとってくると悩みもほぼ3パターンくらいになります。
 息子夫婦、娘夫婦が離婚の危機にあるといった子どもの問題。そして遺産相続。仲良かった兄弟が親の遺産のことで仲違いしているとか、裏切られたとかですね。

 あとは孤独です。おじいちゃんに先立たれちゃって、600坪の家に一人で暮らしているおばあちゃんは、最初の15分間、ただ泣いていました。
 いろんな人から話を聞くうちに、みんな「老い」とか「死」が怖いんだということがわかった。そして僕がひと言ふた言話すことで、気持ちが楽になる方がいらっしゃる。『あん』の講演会や毎年開いている朗読劇にも年配の方がいらっしゃるんですが、最近の僕は「老いとか死に対して人の心に寄り添う立場になりつつある」と考えるようになってきました。
――助川さんのどのような言葉が高齢者の方の心に響いているのでしょうか。

助川:僕が考え続けてきた人間像と世界のあり方を突き詰めていくと、老いも死もそんなに悪いものじゃないんですよ、ということが言えるわけです。

 いろいろ考えてきて行き着いたのは「単独に存在しえるものはない」ということ。あらゆる存在がみんな関連しあっている。人間は一人では生きられないので、社会を形成する。そして宇宙も、宇宙単体では存在できない。目や耳や心で「宇宙がここにある」と認識してくれる存在がなければその存在を証明できません。

 つまり『あん』のなかで徳江さんが結論として得たように、「月の輝き一つ、私がいたからある」ということです。これは僕のオリジナルではなくて1000年も前から人類の一部が言っていることで。ハイデッガーの『存在論』などもそうですね。

 この世界と私たちの命は不可分で、世界を見ること、聞くこと、感じることに私たちの生きる意味がある。自然と月や満天の星や風の音やさまざまなものを分かち合ってひたむきに生きていけばいい。そう考えると、人生はむしろ老いてからが面白いはずなんです。それに命というものは生と死の繰り返しだと思うんですよ。誰かが死んで、誰かが生まれてくる。その繰り返しなんだと思えば、死もあまり怖くはない。
 田んぼの片隅であぜ道に立って蝶々を一生追いかけている人がいたとする。学者にもなれず、ただきれいだなあと。周囲からは「でくのぼう」と呼ばれるかもしれないけれど、その人には蝶々を愛しきったという人生がある。社会の役に立とうが立つまいが関係なく、僕は素晴らしいと思う。でくのぼうな生き方をもっと広めたいですね。

復興は一次産業が基本

――最近、関心をもたれていることは何ですか?
 
助川:実は三宅島の農園でイタリア原産のトマト「サンマルツァーノ」の栽培実験をしてもらっています。エトナ火山山麓あたりの名産で、生では全くおいしくない(笑)。でもソテーするとめちゃくちゃおいしいんです。このトマトを日本でも作れるのではないかと。

 三宅島の人は2000年の噴火後、全島避難となってみんな4年半帰れなかったのですが、火山灰土に合うこのトマトをこの島で作っていったらいいのではないかと考えました。復興は一次産業が基本です。島の人に働きかけて、何人か理解してくださった方の農園やお庭でトマトを作ってもらっています。

 僕も三宅島に400坪ほどの土地を買ったんですよ。やはり自分から土にまみれないと島の人には信用してもられえないですから。もっと島でこの特殊なトマトの栽培を広めたいですね。そのためには販路の開拓も必要になりますが。
【農園で栽培中のサンマルツァーノ(提供:ドリアン助川)】

若者には「単独で存在しえるものはない」ということを知ってほしい

――いま、表現者として「世界のこういう動きはおかしい」と思っていることはありますか?

助川:このところ、気になっているのは自殺する日本の若者が増えていることです。世界最悪の水準で、日本は最も若者が自殺する国になっている。

 これは絶対、社会のどこかに欠陥があるのでしょう。希望を持ちにくい社会になっている。悩んでいる若者には、他者や外の世界との関わりを持つことの意味を伝えたいです。自分探しをするのはいいけれど、自分のなかだけに入って、世界との関連性を切ってしまうと、結局自分も一緒に消えて、そこにはとてつもない虚無の世界がある。他の存在との関わりのなかで自分も存在するのだということを言いたいのです。








ドリアン助川
1962年、東京都生まれ。詩人、作家、道化師。早稲田大学第一文学部卒業。放送作家などを経て1990年に「叫ぶ詩人の会」を結成(1999年解散)。1995~2000年にかけてラジオ深夜「ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン」のパーソナリティーを務めて人気を博す。2000~2002年までニューヨークに滞在。明川哲也の筆名で『メキシコ人はなぜ、ハゲないし、死なないのか』(文春文庫)、ドリアン助川名義で『バカボンのパパと読む「老子」』『多摩川物語』(ポプラ社)など著書多数。小説『あん』(ポプラ社)は世界各国で訳され、2017年フランスのDOMITYS文学賞をアジア人として初受賞した。